40年前に初めて行った台湾は情緒綿々の雰囲気に溢れ、戦前の日本の故郷に
帰ったようで、何んとも暖かい匂いがした。
台北の目抜き通り(中山北路)の突き当たりの高台に立つグランドホテルは、独特な
中国的建築物で堂々と威容を誇っていた。ホテルの裏手にはかって賑わっていた
台湾神社の名残がまだ残っていた。
中山北路は戦前には宮前通りと呼ばれていた。
その頃はまだ蒋介石が北京の故宮から軍艦4隻で運び込んだという宝物を展示している
故宮博物館もなく、その値も付けられないくらいの貴重な宝物類は台湾の中部にある
台中の郊外に保管されていた。
街は厳戒令下にあり、通りや建物のあちこちに「大陸反抗」や「母忘在呉」という
スローガンが目に付いた。
繁華街の西門町にある料理店で、生まれて初めて食べた北京ダックの味の美味かったこと、
あとのスープも素晴らしく生涯忘れられないおいしさだった。
40年も前から100回余りも台湾へ行っていますが、当時を知る者にとって
現在の台湾は、目を見張るような変貌ぶりに驚きを隠せません。
まず交通機関です。
・台湾新幹線開通
かって台南まで快速急行でも3時間半かったのが、新幹線が開通し1時間
一寸でいけるようになりました。
むかしは車窓からゆっくり移り行く台湾の田舎の風景を眺めながら
車中小姐(女性乗務員)がサービスで窓際に設えたグラスに入れてくれる
葉っぱが浮かんだお茶を楽しみながら、牛肉弁当を頬ばったものでした。
これまで特急で4時間あまりかかっていた台湾南部にある大都市高雄
(左営)までがたったの1時間半に短縮され、台北から日帰り圏になりました。
・台北の東西南北を結ぶ路線電車(MRT)
台北市内では、何処へ行くにも車しか手段が無かったのが、今は台北捷運(MRT)という電車が東西南北を隈なく走っており、むかしよく行った
北投温泉まで30分ほどで行ける様になりました。
現在では、速くて安くて安全で、しかも快適な乗り物として大好評で、
台北市民の大切な足として大活躍しています。
・高さ世界一のタワー「台北101」
新しく豪華なホテルも増え、高層建築が林立しています。
今や台北の新しいランドマークと言われる国際金融センター「台北101」
は、高さが508mで101階建ての建物です。
・戦前の日本の匂いを残す台湾
40年前に始めて行った台湾は、情緒綿々の雰囲気に溢れ、戦前の
日本の故郷に帰ったようで、何とも暖かい匂いがしました。
当時30歳以上の台湾人はみな日本語が達者でした。
・台湾神社の跡地にグランドホテル(園山大飯店)
台北の目抜き通り(中山北路)の突き当たりの高台に建つグランドホテル
(園山大飯店)は、独特な中国的建築物で堂々と威容を誇っていますが、
ホテルの裏手にはかって賑わっていた台湾神社の名残がまだ残っていました。
当時、鳥居の横にあった狛犬は現在園山大飯店の前庭に鎮座して
います。
中山北路は戦前には、宮前通りと呼ばれていたそうです。
・台湾の靖国神社・国民革命忠烈祠
園山大飯店の東側に、儀仗兵交代のセレモニーで観光客に人気のある
忠烈祠があります。
ここは、台湾護国神社だったのが戦後中国宮殿風に建て替えられ、
国民革命忠烈祠となり、ここには抗日戦や共産党との戦いで戦死した
30数万人の英霊が祀られています。
戦前に台湾の各地に創建された神社跡が、忠烈祠として改変された例は
他にも多くあります。
高雄神社は高雄忠烈祠になり、花連港神社は花連港忠烈祠に、新竹の
桃園神社は桃園懸忠烈祠となっており、鳥居や石段、燈篭などはそのまま
使われているそうです。
・<蒋介石と大陸反抗
かっての台湾は、戦後中国大陸から毛沢東に追われやって来た蒋介石
総統が率いる国民党政府の官僚や軍人が行政を握り、絶対的な権力を
振っていました。
印象的だったのは、街は戒厳令下にあり通りや建物のあちらこちらに
「母忘在呉」(呉に在るを忘れるなかれ)と「大陸反抗」というスローガンが
目につきました。
後で分かったことですが、「母忘在呉」という標語にまつわる面白い話が
あります。
・臥薪嘗胆と呉越同舟
中国の春秋時代(前770年〜前403年)に長江(揚子江)下流の覇者
呉王闔閭(コウリョ)は、隣の国の越王勾践(コウセン)との戦いに敗れ、
臨終の床に息子の夫差(フサ)を呼んで仇を取るように言い残して亡く
なりました。
夫差は、仇を討つため常に薪の中に臥して身を苦しめ2年後に越に攻め
込んで越軍を打ち破りました。
越王勾践は降伏し、やむなく妻の西施(中国四大美人の一人)を夫差に
さしだし、呉の属国となることを誓わせられました。
越王勾践は、座右に豚の肝をおき、座ったり寝る度に苦い肝を嘗めて、
呉王夫差にたいする復讐を誓いました。
その後、越王勾践は夫差が他国と戦っている隙をついて、ついに呉国を
攻め、急遽帰ってきた夫差の軍勢を打ち破り、越の国を復興しました。
これが有名な「臥薪嘗肝」(復讐の志を抱いて長い間艱難辛苦することの
意味)の復讐の物語です。
また呉と越との抗争にからんで「呉越同舟」(仲の悪い人同士が同じ場所
や境遇に並び立っていること)という言葉も生まれ、現在もよく使われて
います。
中共から大陸を追われた蒋介石が、いつの日かは必ず中国大陸に
復帰し、中華民国の花を咲かそうとする反抗精神を国民大衆に訴えた
かったのでしょう。
・蒋介石と独裁政府国民党
私はかって台湾・台北市に拠点を持つ航空会社に勤めていました。
大阪支店のセールスマネージャーだった私は月例の営業会議に出る
ため、その後の旅行会社時代を含め、台湾へは100回以上は行った
でしょう。
当時の台湾は、戦後中国大陸からやてきた蒋介石と中華民国国民党
政府の官僚と軍人(外省人という)が行政の実権を握り、絶対的な権力を
振るい戦前から住んでいた台湾人(内省人という)を抑圧していました。
・個室キャバレィ・酒家
ご他聞にもれず、本社の部長クラス以上の幹部や役員はすべて外省人
(大陸からやって来た中国人)によって占められていました。
たまに上司が、私が日本から来たかたといって接待してくれることがありました。
繁華街のチュウチャ(酒家)に行き、壁で仕切られた個室に入り、中央に
置かれた丸いテーブルに陣取ります。
左右には、裾を大きく開けたチャイナドレスに身を包んだメイリーシャウ
チェ(美麗小姐、別嬪さん)が侍り、酌をしてくれます。
“CAT航空(当時、勤めていた航空会社)にカンペイ(乾杯)!”
“あなたとわたしは、心と心のお付き合い”
といって、ラオチュ(老酒・紹興酒)やパイカル(白乾。焼酎のように強い酒)
をぐっとあおります。
酒のアテには西瓜の種がよく出ます。
その種を、歯でパリッと割り、器用に皮をむいて中の実を食べ、皮は
テーブルの上にぺッと吐き出します。
ジャンケンに似た遊びで席は盛り上がります。
宴もたけなわになると、彼は私に言い聞かせるように、彼が敬愛する
蒋介石総統について話し出しました。
・怨みに報いるに徳を以ってす
太平洋戦争終結後、蒋総統は日本に対して「以徳報怨」という政策に
基づき最大限の便宜を計らい、多数の日本兵を大陸から無償で復員
させて命を救ったというのです。
自慢げに話す彼の顔は喜色満面です。
「以徳報怨」、正確には「報怨以徳」といいます。
老子から出た言葉で、「怨みに報いるに徳を以ってす」ということです。
人間長く生きていると、時には腹立たしい仕打ちを受けたり、裏切られた
ような気持ちになったりすることがあります。
それに対して、ある人は怒りをそのまま相手にぶつけます。
心の広い優しい人は、怒りをぐっと押し殺して、その場を収めることで
しょう。
しかし、怨みの気持ちは残ります。
老子に言わせれば、そんな場合、受けた恨みにたいして、「徳」(善行)を
以ってお返しするのが一番好いことだといいます。
こういう風に、老子の説く「道」を極めた人が多くいれば、この世の人間
関係はスムーズに運び、争いなんかは起こらないでしょう。
台湾について話をしだしたら、ネタはつきません。
台北本社で仲良くなった営業マンは本省人(台湾で生まれ育った中国人)です。
彼は立派な日本語を話し、そのうち肝胆相照らすほどの仲になりました。
・生まれて始めての北京ダック料理
ある時、美味しいものを食べに行こうと台北駅に近い線路沿いに長く続く
二階建ての商場にあるレストランへ連れて行ってくれました。
そこで生まれて始めて、北京ダックというものを食べました。
二人だというのに、こんがり焼き上げたアヒルがまるまる一羽が出て
きます。
目の前でコックが大きな包丁で裁いてくれたパリッとした薄皮を味噌ねぎ
と一緒にクレープで巻いて食べた味は忘れられないものでした。
こんな美味しいものがこの世にあるのかと感激でした。
その後には、裁いたあとの身と骨をじっくり煮込んだスープがまた格別
でした。
それからは、台北へ行くと一人でもよくそのレストランへ通ったものでした。
ご馳走で忘れられないのは、蜂蜜で蒸し煮した中華ハムを、薄切りにした
パンにはさんで食べる湖南料理と綺麗な模様をした甲羅をもつ花蟹の
蒸しものの広東料理はぎっしりつまったカニの身を頬張ると美味しさが
口のなかに華やかに広がります。
台湾料理では、サツマイモを煮込んだ芋粥が最高でした。
・本省人と外省人
(台湾で生まれ育った中国人と大陸からって来た中国人)
友人は酒が進み饒舌になってくると、私には気を許してくれるのか、声を
低めて国民党政府に対する批判めいた気持ちを漏らすのでした。
本省人である彼は出世コースに乗れない不満がそうさせたのでしょうが、
聞いて分かったのですが、実は本省人と外省人の対立の歴史があった
のです。
1945年(昭和20年)に台湾は日本から中華民国に引き渡されました。
台湾には大陸から国民党政府がやって来ました。
当初、台湾の人々(本省人)は、これを光復(祖国復帰)として喚起の声を上げましたが、国身党政府の役人や軍人は腐敗しており、宝の山に入り
込んだ盗賊のように略奪し、汚職の限りをつくしていました。
また物価の高騰、失業の深刻化、治安の悪化などにより、期待は失望へと
変わり、国民党政権に対して極度の不満を募らせていました。
当時、台湾の人達は“犬(日本人)は去りて、豚(国民党)来る”
(犬は小うるさいが番犬として役にも立つ、豚はただ貪り食って寝るだけ
だ)といって本省人は外省人を揶揄しました。
・台湾の大暴動・二・二八事件
1947年2月27日、台北でヤミタバコを売っていた女性を国民党政府の
官憲が発見。女性が土下座し、許しを乞うたのにもかかわらず、公道で
その女性を銃剣の柄で殴りつけ、商品と所持金を没収するという事件が
起こりました。
さらに取締官は、怒りで集まった民衆に対し発砲し、まったく関係のない
見物人を射殺してしまいました。
これにかねてから不満があった市民の怒りが爆発。翌28日以降、それに
たいする抗議行動や外省人に対する無差別攻撃、暴動が台湾全島に
拡がりました。
このとき、本省人はラジオ局を占領し、日本の軍艦マーチを流し、日本語
で「台湾人よ立ち上がれ!」との決起を促す放送を行ったそうです。
その後、国民党政府による大弾圧が始まり、凄惨な報復に転じました。
日本の統治下で高等教育を受けたエリート層(裁判官、医師、教師、役人)
の多くが逮捕、投獄、拷問され、多数の本省人が虐殺されました。
このとき発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、国家安全法
によって言論の自由が制限され、強権による暴力支配は長らく続きました。
この事件は一般市民の間に密かに語り伝えられ、民主化が実現するのは
1988年に李登輝が本省人として始めて総統になってからです。
・大和魂の人・李登輝
ちなみに李登輝さんは、戦前の京都大学農学部で学び、徴兵で高射砲
部隊へ入営し、見習士官から終戦時は少尉だった人です。
生涯の師として新渡戸稲造に私淑し、その著書「武士道」に大きな感化を
受け、日本人より日本精神(大和魂)の真髄を体得した人です。
・映画「非情都市」
1988年に公開された候考賢監督の「非情都市」は、二・二八事件を
始めて本格的に描いた劇映画です。
この映画はヴェネチア国際映画祭で金賞を受賞し、二・二八事件は世界に
知られることになりました。
お陰でこの二・二・八事件は、自由と民主主義を求める国民的な抵抗運動
として再評価されるに至りました。
・台湾の温泉地
私は温泉が大好きです。
台湾は九州ほどの大きさの島ですが、全島に120ヶ所ほどの温泉が
点在しています。
・北投温泉
始めて友人に連れて行ってもらった温泉は、台北から車で40分ほど
郊外にある北投温泉でした。
泉質は少し濁った硫黄の入った酸性泉で、慢性関節炎、筋肉痛、皮膚炎
動脈硬化、婦人病、膀胱炎、糖尿病などに効力があるとのことでした
いまや新北投温泉は、豪華なホテルが建ち並ぶ一大温泉リゾートですが、
当時はいかにも日本の古い温泉郷といった風情のある和式旅館がところ
どころに点在していました。
着いたところは、「星乃湯」という温泉旅館でした。
日本の家屋と全く同じ造りの建物で、畳敷きの部屋も落ち着きがあり
本当に休まります。
夜になると、置屋から可愛い小姐(女の子)を呼んでくれ、お酌に侍って
くれました。
若気の至りか、翌朝まで飲み続け、老酒(紹興酒)のボトルを7本半も
上げてしまいました。
その頃はまだ公娼制度があり、小姐は夜のお相手もしてくれます。
その後、赤線区域としてますます繁華な装いを増し、立派なホテルも
どんどん建ってきました。
1970年(昭和50年)から1980年頃は、日本からも北投温泉の噂を
聞きつけ、大勢の殿方が群れをなして、北投へ遊びに行くツアーが
企画されました。
あるご婦人から「あなたの会社は売春ツアーを斡旋するのか」と言って
怒鳴り込まれたことがあります。
その公娼制度も、1979年に廃止されました。
それに関して面白い話があります。
台湾へ植物採集や昆虫採集に行こうといったツアーを企画したことが
あります。
それに有名な国語学者と東大に在学中の息子さんが参加されました。
参加の理由は、国語j辞書を編纂する時にいろいろな植物名や昆虫名
が出てくるので、実際に見てみたいというのです。
最終日の前日は、北投での公娼制度が終了する日でした。
学者さんから北投温泉に一泊したいので、手配をして欲しいと頼まれ
ました。
それは息子さんに、日本にはもうない公娼制度を息子に体験させて
やりたいそうです。
この謹厳実直な学者先生は、何という粋な親心なんだろうと感心した
次第です。
後日、成長された息子さんが親父さんの後を継ぎ、テレビの画面で
活躍されている姿を拝見すると微笑みを禁じえませんでした。
北投温泉で一番古くからある「滝の湯」(古くは松乃湯)という日本の
大衆浴場の原形を留める温泉にも入りました。
台湾が殖民地時代だった頃は、湯治場として賑わい、昭和天皇が
皇太子時代に入浴したといわれます
通常、台湾では個室や家族風呂以外の大衆浴場では水着を着けるのが
普通ですが、北投温泉では殆どが日本と同じ裸で入ります。
台湾四大温泉地
北投温泉以外にも台湾四大温泉といわれる陽明山、関子嶺、四重渓
へも行ってみました。
・陽明山温泉
台北に近く、標高500mほどの山の中にあり、情緒満点です。
陽明山公共浴場の円形の大浴場では、みな全裸です。
日本の銭湯気分でゆったり湯に浸かっていると、横で太極拳をしている
おじいさんがいました。
温泉が少し白く濁っており、硫黄のいい香りがしました。
・関子嶺温泉
台南の近くの嘉義から車で約1時間のところ、山を登る道路の途中にある
静かな温泉地です。
ぬめりのある泥を含んだ灰濁色の湯が特色です。
肌がつるつるになり美人の湯といわれています。
泉質は、アルカリ性炭酸泉。
屋内風呂は全裸ですが、屋外浴場は水着着用です。
・四重渓温泉
台湾最南端の恒春半島にある温泉です。
車域の町から山側へ数キロほど入ったところにあり、静かでのどかな
いい環境にあります。
故高松宮殿下(昭和天皇の弟)が好まれた温泉地としても有名です。
殿下が入られた浴槽にもはいってみました。個室風呂です。
蒋介石も訪れ、ゆっくりくつろいだと言われる名泉です。
泉質は弱アルカリ性炭酸泉です。
飲用もできます。
その他いくつかの温泉にも入ってきました。
機会があればぜひ行ってください。
・烏来(ウーライ)温泉郷
台北から車で、1時間半の山地の奥の閑静な地にあります。
このあたりは、台湾先住民のタイヤル族が居住しており
タイヤル族の踊りや歌を披露してくれます。
川に沿って温泉宿やお土産屋さん、食事処が軒を並べ、まるで
日本の温泉街みたいになっています。
河原には、自由に入れる露天風呂もあります。(水着着用)
烏来風景区の入場料を払いトロッコに乗って烏来の滝が落ちている
ところまで坂を登ります。
以前は、タイヤル族の若者がトロッコの後ろを押して登っていった
ものですが、いまは小型ディーゼル機関車で客車を引っ張って
登っていきます。
泉質は、無色無臭の炭酸ナトリウム泉。
・知本(チーペン)温泉
台東の奥座敷、知本風景区の深い森に囲まれた知本温泉は、台湾の
東南部を代表する温泉郷です。
私が泊まった旅館は、和式の粗末な温泉旅館で、風呂も個人用でしたが
それなりに雰囲気がありました。
泉質は無色無臭の炭酸泉。
いまでは知本渓沿いに立派なホテルが立ちならぶ温泉街です。
植物採集ツアーで行ったので、温泉街の先にある知本森林遊楽区で
大いに森林浴を楽しんできました。
空気が最高に美味しかったのを思い出します。
台湾東部の花蓮と台東を結ぶ花東公路を台東から花蓮まで北上して
行くと台湾の秘湯といわれる幾つかの温泉に出くわしそれ等を体験して
きました。
・安通温泉
花東線の中ほどにある玉里の南、海岸山脈の安通渓の畔にあり、湯は
川に流れ込むほど豊富です。
微かに硫黄の匂いがしますが硫化塩素泉で無色透明です。
傷、皮膚病、胃腸疾患などに効くそうです。
これも植物採集ツアーの際に行ったのですが、メンバー達が渓流沿いに
珍しいシダを探している間、私は採集に加わらず2時間後彼等が汗だく
になって帰ってくるまでのんびりと湯に浸かってさっぱりとして待って
いました。
帰ってくるなり、“何と気楽な添乗員さんだね”といって彼等からやっかま
れたのを覚えています。
湯が昏々と湧くように流れ、岩を組んだ湯ぶねが忘れられません。
露天風呂もありますが水着着用です。
・瑞穂温泉
ここも花東線の中ほどにある瑞穂駅から西に3キロほど入ったところにあります。
台湾で唯一の鉄分を含んだ塩化炭酸ナトリウム泉で、効能は通風、胃腸
病、婦人病、神経麻痺、皮膚炎などです。
つぎつぎに湧き出る黄濁色の湯は、いかにも効能がありそうでした。
この温泉は「生男乃泉」ともいわれ、この湯に入ると男の子を産む確率が
高くなるといわれており、新婚さんの利用が多いそうです。
個人風呂と家族風呂が殆どですが、露天風呂もありました。(水着着用)
・花連紅葉温泉
瑞穂温泉からさらに西へ2キロほど奥に入った紅葉渓の畔に素朴な
温泉宿がありました。
個人浴室の浴槽は大きく、湯量も豊富で飲むこともできます。
無臭無色透明の炭酸ナトリウム泉です。
美人づくりの湯としても知られています。
・酒と蝶と美女の産地、埔里
昆虫採集ツアー(主に蝶)でよく台湾の中心に位置する埔里にいきました。
埔里は台湾島の真中心にあり、標高約700mの盆地です。
1年を通じて温暖で、川の水質の良さは台湾一を誇っています、
水のきれいなところには、蝶々が群がってきます。
台湾産の蝶430種のうち、300種が見られる蝶の生息地としても知られ
ています。
埔里にある木生昆蟲博物館には、身体の半分がオスで半分がメスと
いう蝶や幻の蝶といわれるフトオアゲハなどは収集家にとって垂涎の
品種だといって感激していました。
この良質の水を利用して造り出される埔里の紹興酒は最高だといわれて
います。
酒好きの私は埔里酒廠を見学に訪れました。
工場内には中国歴代の酒造の方法や酒器を展示した酒文物館がありまし
たが、早速試飲コーナーに行きました。
一般的な赤ラベルの紹興酒は3年もので、金ラベルの陳年紹興酒は5年
、精醸陳年や特級陳年紹興酒は7年ものです。
勿論、極上ものの精醸陳年紹興酒を試飲させてもらい購入しました。
年間60万ダースの紹興酒を製造しているそうです。
水がきれいなところには、美人が育つといわれています。
一緒に付いてくれたガイドさんは埔里出身の山地民族タイヤル族の
女性で、色は少し黒いが確かにきめ細やかな肌をもった美人でした。
歌の上手い彼女と気脈が通じたのか明け方まで話し込んでしましました。
・日本植民地時代の悲劇、「霧社事件」
彼女との話の中で、あまり日本人には言いたくないがと言いながら
「霧社事件」のことを話してくれました。
霧社は埔里から20キロほど山に入ったところにあります。
jこんな山紫水明の地で、血で血を洗うような大虐殺が行われたそうです。
どんな事件かというと、1895年(明治28年)、日清講和条約により
清から台湾を割譲された日本は、植民地支配を進めていきました。
1929年(昭和4年)には、中部山岳地帯の霧社にも、駐在所や役所、
学校、日本人が住む住宅などを作っていきました。
その労働は、山地民族を強制的に使役させたのです。
彼等は狩猟と畑仕事を生業としていましたが、使役のためそれも出来ず、
次第に強制労働と嫌悪感が募ってきて、ついに一揆を起こしたのです。
1930年(昭和5年)10月27日の朝、タイヤル族の頭目モ−ナ・ルダオ
は、霧社近隣の他の村落の青年男子300人と日本人のいる駐在所・霧社
分室などを襲い、銃や弾薬を奪い、霧社公学校で行われていた日本人の
連合運動会場を襲撃しました。
会場には、日本人の他に台湾人高砂族の人達もいましたが、日本人だけ
を選んで、女子供の区別なしに殺害し首を捕って行きました。
その数130名余り。日本人の生存者は100名足らずでした。
台湾総督府は大いに驚き、日本の軍隊と警察を動員して圧倒的な兵力で
鎮圧に乗り出しました。
飛行機まで出動し、機関銃や大砲まで使って、一週間足らずで反乱軍を
鎮圧しました。
反乱軍に加わった部族の総人口の約6割にあたる730人が殺され、
首謀者モーナ・ルダオは長男や婦女子とともに自殺しました。
そのときにガイドさんのお父さんや叔父さんも殺されたそうです。
台湾支配が確立するまでの8年間,軍政下で32,000人の台湾人が
殺害され、日本統治下では総計10万人の犠牲者が出たそうです。
日本統治下でインフラの整備や土地の開拓、殖産、教育の普及など、
日本が台湾の近代化のため果たした役割も沢山ありますが、
植民地政策に抵抗して犠牲になっていった人達も多数います。
これら負の部分に目を逸らしていくわけには行かないのも事実です。
台湾へ行ったらぜひ行ってみたらいいところがあります。
・国家公園・花蓮太魯閣峡谷
台湾の東海岸の花蓮から中央山脈を横断して西の台中までの
約350キロを走る東西横貫公路があります。
花蓮の近くに大理石の岩山が、3,000m級の山々が連なる
中央山脈を水源とする立霧渓の流れと風雨に侵食され、
気の遠くなるような歳月をかけて造り上げられたのが、
奇跡の景勝地・太魯閣峡谷です。
いまは国家公園になっていますが、日本時代から国立公園に
指定されていた天下の名勝です。
花蓮の北30キロに東西横貫公路の入り口があり、そこから
天祥まで20キロまでが太魯閣峡谷です。
絶景の代理石の峡谷を走り抜ける道路沿いに、燕子口、
錐麓大断崖、九曲洞などのみどころが点在しています。
・燕子口
太魯閣峡谷を代表する絶景の一つです。
両側の峡谷の絶壁の間隔が一番狭くなったところです。
対岸との距離はわずかの16mです。
岩肌には雨や風の浸食により、無数の穴がうがたれ、その穴に
イワツバメが巣を作ったのでその名前があります。
頭上には岩がのしかかるように迫り、押しつぶされそうな
圧迫感を感じます。
車から降りたお客さんが、落ちていた石を拾って、思い切り
対岸の岸壁に投げつけると、カーンと音がして石は飛び散りました。
隣では、ヨーロッパ人が、いやな顔をして見ていました。
あれ、石を投げて壁を傷めるのはマナーに反するのかしら、と
一瞬考えてしまいました。
・錐麓大断崖高さ600m幅1200mにも及ぶこの峡谷で一番高い断崖が現れます。
代理石の大岸壁で、屏風のように真直ぐにそそり立つ景観は
息を呑むばかりです。
左右を岸壁で囲まれた断崖を仰ぎ見ると、空の形が台湾本島に
見えるといわれています。
・九曲洞
絶壁をくり貫いて作られた曲がりくねったトンネルが9つも続く太魯閣峡谷
最大の観光ハイライトです。
多難な東西横貫公路の建設工事に中でも、最も困難を極めたところです。
公路の工事で120名余りの人が犠牲になったそうです。
太魯閣の入り口を過ぎると間もなく、建設中に殉職した人の霊を祀った
長春祠があります。
トンネルの中は、ひんやりとした空気が流れ、その掘削の大変さが
ひしひしと伝わってきます。
この区間は、車から降りてぜひ歩いての見学をしてみてください。
絶壁の高いところは、川底まで1700mもあります。
どの峡谷の川底にも、エメラルド・グリーンの綺麗な清流が流れています。
このあたりの代理石の埋蔵量は一千億トンともいわれ、これを掘り出す
には4千年以上もかかるそうです。
・阿里山森林遊楽区と祝山で・ご来光拝観
阿里山は台湾の最高峰玉山(戦前は新高山)の西にあり、ヒノキの
原生林にかこまれた暑さ知らずの別世界です。
玉山山脈から昇るご来光は、神秘的で幽玄の世界に誘ってくれます。
阿里山へ登るには何といっても世界有数の山岳森林鉄道に乗って
行くことです。
・阿里山森林鉄路
この山岳鉄道は、阿里山一帯に広がる豊かな原生林から切り出した
ヒノキを運び出すために、海抜30mの嘉義から海抜2274mの
阿里山までの80キロを結ぶ世界有数の山岳森林鉄道です。
植物採集や林業視察、トレッキングツアーで上りましたが、この
鉄道は何度乗っても飽きることがありません。(3時間半の旅)
沿線風景がすばらしく、熱帯植物から亜熱帯へ、そして温帯植物へと
変わっていく様は、動く大パノラマ植物図鑑です。
60%という急勾配が続くため、かってはアメリカ製の歯車式
蒸気機関車が走っていましたが、いまは三菱製のディーゼル機関車
が4両の客車を引っ張っています。
急勾配のため、スイッチバックも4度ほど繰り返し、らせん状に
山を登るスパイラルラインなど山岳鉄道ならはでの醍醐味を
味わいます。
一度嵐の直後に乗った時は、途中沿線の崖が崩れ、線路が大きな
砂利や石で塞がっていたので、乗客一同は荷物を抱え、線路脇を
大回りしてふうふう言いながら登ったことがありました。
日本ならこんなことは事前に調査して分かることなんだがと、
その時は不満に思いましたが、いまではこれもいい思い出です。
かって使っていた日本時代の阿里山駅舎はレトロな感じで
良かったのですが、老朽化と狭くなったので、いまは位置を変え
立派な駅になっています。
現在、嘉義と阿里山間の主導権はバスに譲ってしまったようですが、
ぜひ片道だけでもこの山岳鉄道を乗ってみることをお勧めします。
・阿里山森林遊楽区
もう日本には見れない大きなヒノキの原生林のなかに遊歩道が
続いています。
森の遊歩道を歩いていると、幽玄の世界にいるようでこれほど
贅沢な森林浴がないことを実感します。
ルートには、山地民族の二人の姉妹が一人の若者に恋をしたが
かなわず自殺してしまったという伝説のある大小二つの池・姉妹潭
とか、道教寺院・受鎮宮、タイの国王が日本の天皇に贈ったという
釈迦像を奉られている慈雲寺、同じ株から三代にわたって生えて
いる三代木、樹齢千年以上のヒノキの森・千歳ヒノキ群など見所が
いっぱいです。
ちなみに、日本で最大の明治神宮の大鳥居は、戦前台湾ヒノキで
造られた物です。
残念なのは、昔立っていた樹齢3千年を越えるご神木(紅ヒノキ)が
10年前の大嵐で傾き、安全のため切り倒されてしまったことです。
・玉山からのご来光
阿里山に来たからには、朝早く起きて少し足を延ばして森林鉄道で
25分の祝山まで上り、そこの観日楼展望台から台湾の最高峰玉山
から昇る日の出を見ることです。
素晴らしいのは、下に広がる雲海が、日の出前から、太陽が顔を現し、
昇るに従って、その色合いを刻々と変えていくのです。
自然の雄大なキャンバスが、色彩を紫色からピンク色に、それから
オレンジ色へと変化していく様はただただ感激です。
・阿里山賓館
阿里山公路(バス道)が、開通して以来、バスターミナル周辺には
大型ホテルが沢山建ち始め、レストランやお土産店が軒を連ねて
いますが、私は阿里山では必ず阿里山賓館に泊まることにしています。
阿里山賓館は森林遊楽区の中にあり、周辺の観光には最高の
ロケーションで、日本時代からある歴史と格調の高さを感じる
レトロなホテルです。
最初にこのホテルに泊まった時、夕食のため餐庁(レストラン)
に行くと、丁度夕日が沈んでいく時でした。
広いガラス張りの窓の外に広がる山と雲海が、その色彩が
刻々と変わっていくのをみて、何と綺麗なのだろうと自然の
造詣の美に打たれてから、またあの美しさに接したいと
思いました。
ただ、阿里山観光での難点は、山岳鉄道が一日に二便しか
運行してなく、それも客車4両の定員は100名なので、乗車券
がなかなか手にはいらないのと、阿里山賓館の部屋数が
35室と少なく、部屋が取りにくいということです。
いつも計画は早めにして、力のある現地旅行社に手配をして
もらうのが一番です。
・国立故宮博物院
台湾へ来たら見逃せない観光スポットといえば故宮博物院でしょう。
故宮とは昔の宮殿という意味で、北京にある明・清朝歴代の皇帝の皇宮、
紫禁城のことです。
その皇帝たちが集めた超貴重な文物や美術品を精選して、中国を追わ
れた蒋会石は軍艦4隻を使って台北の地へ持ってきたのです。
私が初めて台湾へ行った時は、まだ博物院はなくそれらの重要文物は、
台中の地下壕に所蔵されていました。
緑豊かな山間に建つ威風堂々とした現在の国立故宮博物院は、台北市の
北東8キロのところにあります。
収蔵する文物はどれも素晴らしく国宝級ばかりの逸品で、その数70万点
余りにのぼります。
常時展示される文物は約2万点で、3〜6ヵ月の割合で展示品の入れ替え
があり、全ての所蔵品を見るためは10年以上もかかるといわれています。
書画、絵画、陶器、宝石とどれもこれも何度鑑賞しても見飽きることが
ありません。
なかでも印象に残っているのは、翡翠の緑と白の色と質の違いを巧みに
生かして彫り上げたコオロギと白菜の「翠玉白菜」と、まさにとろりと
軟らかく煮込まれた豚の角煮そっくりの天然石「肉形石」です。
日本からツアーで行くと、大抵1〜2時間でさっと見学するのが殆どです
が、すなくとも半日か一日は時間をかけて見たいものです。
見学に疲れたら、7千坪もある敷地内にある至善園という本格的中国
庭園の休憩所でゆっくりくつろがれるのがいいでしょう。
現在の院長は女性の本省人で東京大学出身の知日派です。